沖縄の世界遺産

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沖縄の世界遺産

今帰仁城跡

今帰仁城跡は沖縄北部の北山王の居城跡で、現在では美ら海水族館からすぐ行ける観光スポッ、桜の名所としても有名です。

今帰仁城は約1500メートルの城壁が標高の高い丘に築かれていて、地形に沿った形をしていて、美しい曲線となっています。

今帰仁城主の北山王は外国とも交易をして、国力を高めていきましたが、尚巴志の中山軍に滅ぼされて、その後に北山地域の安定のため首里から王の一族が派遣されその住まいとなりました。

1609年の薩摩侵攻の際に城は焼かれて、1665年に最後の監守が首里に戻ってからは、祈りや祭りを行う場所になりました。

座喜味城跡

座喜味城跡は1420年代に地方領主の護佐丸によって建てられました。
尚巴志の今帰仁城攻略にも参加した護佐丸は、論功賞で領地を恩納村から読谷村へと移しました。この城の目的は今帰仁城攻略後の今帰仁残党の監視にありました。

築城にあたっては、恩納村の山田城を解体して、手渡しで積み石を運ばせたと伝えられています。二の郭に残る城門は沖縄に現存する最古のアーチ門と考えられています。

その後、護佐丸は首里王府の命で、勝連城の阿麻和利を牽制するために中城城に移りました。

勝連城跡

築城は1200年前後とされ阿麻和利の頃に全盛を極めた。
城跡からは日本本土や奄美、朝鮮、中国などの産物が出土する阿麻和利は海外との交易で力をつけました。

1458年に中城城主護佐丸を滅ぼし天下統一を目指したが鬼大城を大将とする琉球王府に攻められて滅んだ。
そのことから阿麻和利は極悪人として伝えられているが地元では偉人として慕われており当時の勝連も古代歌謡では京都や鎌倉に例えられ、城主の阿麻和利に1000年も勝連を治めてくださいと言う歌もあります。

中城城跡

標高160メートルの高台にあり、南に中城湾中城湾、西に東シナ海を望むことができる。

ほぼ築城当時の姿を残す数少ないグスクである。自然条件を生かした琉球石灰岩の規律正しい石積みと城を囲む石塁の曲線が美しい。

15世紀の初めごろからには作られていたと思われるが正確なことはわかっていない。
琉球王府の命で座喜味城から移ってきた護佐丸によって拡張された。

一の郭、二の郭、三の各が南北一直線に並び西側に西の郭が連なっている。
1458年勝連領主の阿麻和利によって滅ぼされた。

1853年この地を訪れた米国ペリー艦隊の一行もここを測量し、その築城技術の高さを賞賛している

首里城跡

14世紀後半からおよそ500年にわたって琉球王国の政治や文化の中心地であった。
城内は正殿、北殿、南殿及び御庭からなる区域や正殿の背後に位置する王家の居住区、
祭祀のための区域等が整然と整備されている。

琉球王国はここを拠点に中国や朝鮮日本東南アジアとのあいだで活発な交易を繰り広げた先人たちは海を越え未知の国の様々な文化を取り入れ自国の発展に努めた。

首里城の中心部は正殿で3階建てになっている1階が王府の重要な政治や儀式を行う場所で2階が王家一族の儀式空間、3階は風通しをするよくするための屋根裏である。

南殿は主に日本風の行事が行われる施設で薩摩役人の接待もここで行われました。北殿は王府の役所としての施設で中国皇帝の使者である冊封使を接待する場所にも利用されました。

大交易で反映した琉球も16世紀後半には衰退し1609年に薩摩の侵攻を受けて江戸幕府の支配体制に組み込まれました。そして1879年の琉球処分で王国は廃止され沖縄県となりました。

沖縄戦で全焼した首里城は戦後跡地に琉球大学が建てられた大学移転後徐々に復元が進められ1992年には正殿等の主な施設が復元されました。

2019年には火災により正殿等が全焼、現在新たな復興目指し取り組みが行われている。

園比屋武御嶽石門

琉球石灰岩で出来た石門で琉球王国の第三代尚真王によって作られました。
石門は屋根の飾りに日本風と中国風の様式が混ざった沖縄独特のものになっています。
竹富島の西塘が手掛けたと言われています。
門の後ろは御嶽になっており、祭事や国王が場外へ出る場合も安全を祈りました。
また聞得大君が斎場御嶽で就任式の儀に行く際も祈願したと言われています。

玉陵

中央集権的王権を精神面から支えるため、第二尚氏王統の陵墓として第三代尚真王が築いた。墓室は自然の岸壁を利用して作られている。墓庭は内庭、外庭に分けられ、周尾は珊瑚石灰岩の石垣で囲われている。

墓室は3つに区分され、中室に洗骨までの遺骨を安置し、東室に洗骨後の国王と王妃の遺骨を、西室にその他の王族の遺骨を納めた。

墓の前庭には「玉陵」に入る資格を記した碑文が建てられている。内容は「ここに記された尚真から尚源道までの9人とその子孫は、千年、万年にいたるまで玉陵におさめるように。もし、後の世に被葬者をめぐる争いごとがおこったら、この碑文を見よ。その文面んに背くものがあれば、天罰を受けるであろう。」というものである

識名園

1799年に造営された王家の別邸で、 中国皇帝の使者である冊封使をもてなす場としても利用された。首里城の南にあることから南苑ともよばれた。

池を中心に、赤瓦の御殿建築、築山、果樹園、樹林か配置されている。 池の中に島をつくり、中国風の六角堂が建てられている。池の周りの園路には高低差がっけられ、 視野の変化で景色が楽しめるようになっている。

園の南に位置する勧耕台は、南部地域が一 望できる高台になっている。海を望むことができないことから、冊封使をここに招いて琉球の国土の広さを示したと伝えられている。

斎場御嶽

琉球開闢の神アマミキヨがつくった七御嶽群一つとされ琉球王 国の最高の聖域として位置付けられている。
巨大な二枚の岩の空間を通り抜けると、神の島とされる久高島が遙拝できる。
古くは男子禁制であっ た。

王国の神女組織の最高位聞得大君が就任する
「御新下りり」の儀式が行われ、 中央集権的な王権を信仰面、精神面から支える国家的な祭礼の場として重要な役割をはたした。
今日においても、 東御まーいの際に多くの人々 が参拝に訪れる。

東御まーいとは

琉球国王が国づくり神話に関わる場所を巡りヽ 国家の繁栄と安泰・ 五穀豊穣・ 健康長寿を祈るために行っていた。
後には代役を派遣して行っていた。 明治以降庶民の問にも広かり、父系の親族集団 「 門中」 で行っている。

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